[Jリーグサッカーキング 2014年3月号掲載]
Jリーガーたちのその後の奮闘や活躍を紹介する本企画。今回紹介するのは、3つのクラブを渡り歩き、川崎フロンターレ時代に日本代表に名を連ねたDF箕輪義信さん。現在、神奈川県立新城高で教師を務める彼に、プロ選手として過ごした自身のキャリアに対する思いと、指導者としての道を歩むセカンドキャリアについて聞いた。
文=細江克弥 取材協力=Jリーグ 企画部 人材教育・キャリアデザインチーム 写真=兼子愼一郎、Jリーグフォト
導かれるようにして飛び込んだプロの世界
ある日の午前。神奈川県川崎市内の高校で、県立新城高のベンチに監督として座る箕輪義信の姿があった。新人戦の地区代表決定戦。勝てば県大会に進出できる重要な試合である。試合は前半に2点を奪った新城高がリード。しかし後半に1点を返され、緊張感はピークに達していた。
「お前がやらなきゃ誰がやるんだ!」
ピッチで必死にボールを追う選手に向けて、箕輪の檄が飛ぶ。名前を呼ばれた選手は「はい!」と答え、またボールを追った。新城高は守勢を強いられた終盤を乗り越え、何とか地区代表枠を勝ち取った。
試合後のミーティングを終えた箕輪はサングラスを外し、さっきまでの厳しい表情を崩してこちらに歩み寄ってきた。
「お待たせしました。じゃあ、行きましょうか」
連れ立って近隣のレストランへ足を運び、話を聞いた。
1999年に加入したジュビロ磐田で2年、川崎フロンターレで9年半、コンサドーレ札幌で2年半をプロとして過ごし、2010シーズン限りで現役を退いた。05年にはジーコ体制下の日本代表に招集され、1試合に出場。しかしそれだけの実績を誇る彼がセカンドキャリアとして選んだのは、公立高校の教師という職業だった。聞けば、その仕事は中学時代からの憧れの職業だったという。しかし私立ではなく公立を選び、いわゆる公務員となった選択にこそ彼らしさが凝縮されている。
「高校2年の時にJリーグが始まったんですが、僕は国体選抜に選ばれるような選手でもなく、自分がプロの世界でプレーするという選択肢は全くありませんでした。プロになりたいと思ったのは仙台大3年の頃。ユニバーシアード代表に選ばれて、うまい選手と一緒にプレーして、世界の舞台というものを初めて経験して、『こんなに楽しい世界があるんだ』と素直に感じたんです。でも、それがきっかけでプロになりたいと思ったわけではありません」
大学卒業後は教師になるつもりだった。子供の頃に「勉強が苦手だった」という箕輪には、中学2年の時に出会った一人の国語教師によって、勉強の楽しさを教わった経験があった。「誰でもやればできる」。国語教師のその言葉は箕輪を勇気づけ、以来、教師という仕事に魅力を感じた。
「体育の教師になって、あの先生が自分に与えてくれた感動を子供たちに感じてもらいたい」
しかし大学4年になったばかりの頃、その人生を大きく変える出会いに恵まれる。
「ある日の練習で『知らない人が来ているな』と思ったら、その人がジュビロのスカウトでした。まさか自分に声が掛かるとは思っていなかったので驚きましたね。しかも、当時のジュビロは黄金時代の真っただ中。『何で俺なんだろう』という思いが強すぎて、一度は『自分には厳しい、そんなレベルの選手じゃない』と断ったんです。本当にそう感じていたので、すごく冷静だったんですよ」
ところがスカウトは、こんな言葉で箕輪を説得した。
「ウチに来て育てばいい。今の君は何も知らないままサッカーをやっているから、磐田に来てサッカーを勉強してほしい」
その人の目を見て「うそは言っていない」と感じ、プロの道に進むことを決めた。いずれ教師になるにしても、プロとしての経験をきっと生かせるはず。教育実習に通っていた頃には自らの意志を固めていた。
「本当に出会いに恵まれていたと思います。僕はプロになりたいと思ったことがないまま、導かれるようにしてプロの世界に入りました。たぶん、なかなかそういう選手はいないんじゃないかな。大学時代も自分がプロで通用するとは思えなかったですから。ただ、ユニバーシアードに出場した時に、自分が最も得意とするヘディングで初めて競り負けるという経験をしたんです。確か、オランダの選手だったかな。2メートル近くも身長がある選手に競り負けて、ものすごく刺激を受けました」
あの時期があったからこそサッカーがうまくなれた
もっとも、磐田ではそれ以上の刺激的な日々が待っていた。
本人の言うとおり、当時の磐田はまさに黄金時代の真っただ中にあった。97年と99年にはJリーグの年間王者に輝き、中山雅史、名波浩、藤田俊哉、福西崇史、服部年宏など日本代表に多くの選手が名を連ねた。そもそも「プロで通用するとは思わなかった」と自己分析する箕輪が困惑するのも無理はない。その一員として常勝軍団に所属するということは想像よりもはるかに厳しく、またあまりにも大きすぎる壁として箕輪の前に立ちはだかった。
「何と言うか……。先輩たちがピッチの上で考えること、いや、行動のすべてにおいて全く意味が分からなかったんですよ。一発でドーンと前に蹴るプレーが僕の特徴の一つだったんですけど、それをやるとみんなに怒られました。ほめてくれたのは、裏でボールをもらいたい中山さんだけ(笑)。DFでもとにかくパスをつなぐことを求められて、どうにもならないという状況に初めて直面しました。ボールが来るのが怖かったですね。いつも『すみません!』って謝っていました」
トップチームでの出場機会を得られなかった箕輪は、週末の試合が終わると、その足で地元・川崎へ車を走らせた。そこで翌日のオフを使って夜遅くまで地元の仲間とボールを蹴り、磐田の練習で指導されたことを試し、サッカーの楽しさを実感する。そんな週末を繰り返していた。
「このまま諦めたらカッコ悪いと思って……その思いだけでサッカーを続けていました。プロになりたくてなったわけじゃないけど、サッカーは好き。好きなことをサボっちゃいけないと強く思っていたんです。週末に地元の仲間とボールを蹴って、磐田の練習場で言われたことを復習して。ずっとそんな生活を送っていました。車の走行距離メーターがとんでもないスピードで進みましたよ(笑)。でも、最初に入ったクラブがジュビロで良かったと思います。あの時期があったからこそ、サッカーが少しでもうまくなることができたし、サッカーが好きなことを再確認できました」
プロになる以前からずっと、箕輪は確固たるポリシーに従って決断を下してきた。何かに迷ったら、最初に見えてきた選択肢を選ぶ。流れに逆らうことなく決断することが、自分に良い結果をもたらしてくれると信じている。
「当時、毎日ジュビロを取材しに来ていた記者さんたちに、『箕輪くん、もったいないよ。頑張ってね』とよく言われていました。目の肥えている記者さんたちにそう言っていただいたことは素直にうれしかったです。チームには日本代表に選ばれるような選手がたくさんいて、僕の出番は回ってこない。だから違う環境で勝負することもいいのではないかと真剣に考えるようになりました。いろいろな方たちの協力もあって、僕は地元のフロンターレに移籍することができました。本当に恵まれていると思います」
00年にJ1昇格を果たした川崎Fだが、箕輪が加入した01年は再びJ2に戦いの場を移していた。これから上を目指していこうというチーム状況が、箕輪の性分にも合っていた。しかも、生まれ育った地元である。仲間とともにチームを育て、一から作り上げていく過程が楽しくて仕方なかった。
「特に05、06、07シーズンは格別でした。J1に再昇格してからの3年間ですね。あの頃のフロンターレには怖いもの知らずのチャレンジャー精神があって、いつも『やるかやられるか』の緊張感ある試合をやっていましたから。そういうチームを作った監督の関さん(関塚隆)はすごいと思うし、純粋に勝負を楽しむことができました。サポーターと一体となって戦うクラブの姿勢が本当に好きだった」
08年に川崎Fを離れることになった時、彼は32歳になっていた。自分のイメージとプレーにわずかなズレを感じ始め、若手も台頭してきた。川崎Fで引退して川崎Fのコーチとしてのセカンドキャリアの可能性を多く残すか、それとも他のチームで現役を続けるか。決断を迫られて恩師に相談した結果、自らの決意が固まる。
「何もできなかった僕が一度でも日本代表に選出されるまでになって、ここまで現役を続けて来られたのは、支えてくれたたくさんの人のおかげ。だからもう、自分の体は自分のものじゃない。自分の思い一つで引退を決めるべきじゃないと言われました。だから、体が動かなくなるまでプレーしようと。いろいろなことを糧にして教師になりたいという思いもあり、ピッチに立ち続ける決断を下しました」
しかし新天地の札幌では、あまりにも苦しい時間が待っていた。アキレス腱を4度も手術し、主治医から『前例のない難しい症例』と言われるほどの状態を乗り越えるためにリハビリに励む日々。パーソナルトレーナーを手配し、復帰を目指して厳しいトレーニングに励んだ。しかし、その日を迎えることなく札幌との契約は10年限りで満了。翌11年には努力の結果、奇跡的にプレーできるだけのコンディションを取り戻したが、東日本大震災の混乱の最中で移籍先を見つけるのは簡単ではなかった。そうしてキャリアの幕引きを悟り、セカンドキャリアへと気持ちを切り替える。公立高校の教師となるべく試験勉強に打ち込んだ。
迎えた実技試験の科目を知って、箕輪は驚いた。
「その年の試験科目は、水泳、陸上、サッカー、バドミントン、柔道の5種目でした。正直、驚きましたね。サッカーはもちろんですが、札幌ではプールでのリハビリに非常に多くの時間を費やしていて、陸上も専属トレーナーとのリハビリで経験しました。それから、妻は学生時代にバドミントン選手だったので、よく一緒にやっていたんです。だから、僕は試験で自分が生きるためにやってきたことのすべてを思い切って表現すれば良かった。『今をやり切る』ということの大切さを痛感しましたね」
今を全力でやり切ることが大事なんだと思います
箕輪は試験に合格し、晴れて教師となった。しかしなぜ、公立学校の教師という道を選択したのか。選手としてのキャリアを考えれば、サッカーに力を入れている私立校からのオファーがあっても不思議ではない。
「理由は二つ。まずは、そっちのほうが自分にとってカッコいいと思ったんですよ。確かに、サッカー界でのいろんな人とのつながりがあれば、私立高校の教師や私立大学のコーチになれる可能性があったかもしれない。でも僕は、最初からそれに頼りたくなかった。まずは自分で行動して、それでも無理だったらその可能性もいい。自分で努力もしていないのに『お願いします』という行動は、僕の中では『ノー』だった」
それからもう一つ。
「『サッカーで育てられるのはサッカーの力だけ』ということはあり得ないと思うんです。サッカーをやっていればいろいろなことを学ぶことができる。人間関係もそう、社会人として生きていくための方法もそうですよね。だから、僕はサッカーをやってきた人間として、サッカーを通じて人を育てたい。でも、自分はそれを最前線に立ってやるような人間じゃないとも思うんです。フロンターレでもコンサドーレでも、チームの一員として下からはい上がっていくのが好き。そういうところに身を置きたい。だから草の根にいて、そこからエネルギーを発信していきたいなと」
一般的なアプローチとは正反対。つまり、指導者として自らが上を目指すのではなく、上を目指す人間を下から支えたい。そうした思いで、箕輪は公立高校教師というセカンドキャリアを選択した。
「そのほうがカッコいいと思った」という言葉を文字にすると浮ついた印象を与えるかもしれないが、彼が発する「カッコいい」にはそうした種類の軽さが一切感じられない。それは、ついさっきまで高校生と真剣に向き合っていた彼の姿を見れば分かる。生徒はもちろんサッカーエリートではなく、箕輪から見れば素人に近いかもしれないが、大切なのはサッカーそのものがうまくなることや試合に勝つことだけではない。彼らに真剣に向き合うことで、サッカーを通じて人を育てる。それが自分に与えられた役割であると考えている。
「将来、彼らが何らかの仕事に就く時、今サッカーをやり切ったことが必ず生きてくると思うんです。逆に言えば、今サッカーをやり切ることができれば、どんな世界でも通用すると思う。僕はサッカーを通じてそれを実感しているので、彼らにもそれを伝えたい。これって、公立高校でやるからこそ意味があると思うんですよね」
強豪校のように有望な選手がいて、自分の理想とするサッカーを指導者として体現し、結果を出す。そういった環境にも憧れる。しかし、今の自分に求められているのはそれとは対照的な指導者であると感じている。
「幸いなことに、僕は選手として行けるところまで行かせてもらいました。だから指導者としては、上を求めて選手たちを引っ張り上げるのではなく、彼らと話をしながら、下から押し上げてあげられるような指導者でありたい。サッカーで学校を変える。サッカーで地域を変える。そのためにあいさつをする。一生懸命に走る。そういう精神って、フロンターレと同じですよね」
赴任1年目、箕輪の厳しい指導に生徒たちは戸惑った。真剣に向き合っているからこそ容赦はない。サッカー人としての自身の基準で、同じことを生徒たちに求める。2年目、そうするうちに何人かの生徒がサッカー部から離れたが、彼らのほとんどは「もう一度やりたい」と戻って来た。
「最初はかなり戸惑ったと思いますよ。彼らは『どうしてこれだけしっかりとしたあいさつをしなければならないのか』を分かっていなかった。でも、ある遠征に行った際に強豪と言われるチームほどしっかりとあいさつしていることに気づいたんです。そうやって成長していくと思うし、あいさつだけじゃなく、サッカーを通じて知れることはたくさんありますからね。だから練習に来なくなった部員が『もう一度』と戻ってきてくれたのは本当にうれしかった。大切なことに気づいてくれたわけですから」
中学生の頃から思い描いていた教師になることができた。プロとしての経験を伝えられる環境もある。厳しい要求をしつつ、自ら実践することで納得させることもできる。好きなサッカーと向き合いながら、決して得意ではない業務にも向き合う。もちろん力不足を感じることもあるし、確固たる自信を持って臨めることもある。だからこそ楽しい。
「やっぱり、今を全力でやり切ることが大事なんだと思います。だから、子供たちに『お前ら、やり切ってるか?』と問いかけながら、それを自分にも問いかけ続けたいなと。この先の自分にどんな未来が待っているかなんて、誰にも分からないですからね。今をやり切れば、きっとその先の道が開けると思うんですよ」
常に全力で。そしてその先へ──。異色のキャリアを誇る公立高校教師、箕輪義信の熱いチャレンジは続く。
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